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薫

Author:薫
衣/冒険はしない
食/お酒のおつまみ系
住/かながわけんみん。

Fsリーグ優勝 その1

ファイターズ、25年ぶりリーグ優勝おめでとうございます!!
う…生まれて無いよなぁ。25年前。

とりあえず、昨日は斎藤と八木の投手戦で、凄かった。
斎藤の投げっぷりと最後の崩れ落ちる様は見ていて美しいと思えたほどだった。
的場と松中の表情にもグッときた。

勝者よりも敗者に先に目が行くってのは、どうにもならんなぁ。


最後は稲葉の内野安打できまりました。
まさかあの当たりでひちょりがホームまで走るとは思わず…ナインがベンチからドワーっと出てきて抱き合ってるシーンを見ても、結構ポカーンとしてました。

後にVTRで何度もそのシーンが流れるんですけど、黒いTシャツを着た方が何人もグラウンドに走りよって、一緒にバンザイしているんですよね。

たぶん裏方さんだと思うんですけども、その走り寄る中に3人が走りながら肩を組むシーンがあって、結束力の強さというか、そういうものを感じました。

野村監督いわく、何故ハムが1位になったかわからない…だそうで、誰をマークしていいのかわからないチームだそうです。

全員が主役!ということを端的に表しているなぁと思った次第です。

まぁ私がいくら語ったところで面白くも可笑しくもないので、いくつか記事抜粋したいと思います。



すんごいルーキー!八木が完封!NEWパワーでつかんだ栄光

目の前を森本が駆け抜けていく。その先で新庄が万歳を繰り返していた。何が何だかわからない。それでもマウンド付近にできた「歓喜」という名の大輪の花を目がけて、八木は思い切りベンチを飛び出した。
-略-
 「いけるところまでいこうと思っていた。内容的にはすごくよかったと思います」

 本拠地で決められる最後のチャンス。北海道のファンのために、絶対落とせないゲームの中心で、背番号29の左腕は輝きを放った。9回を3安打無失点の完封。4月15日、延長10回“ノーヒットノーラン”を達成した相手から、またしても凡打の山を築いた。

 「正直、こんなにやれるとは…。プレッシャー? ないですよ。挑戦者ですから」。
ルーキーとは思えない強心臓。そこに八木流の方法がある。
試合前、必ず創価大時代の指針を心で唱えてからマウンドにあがる。

 『心で勝て。次に技で勝て。ゆえに練習は実戦。実戦は練習』

 不思議と心が落ち着いた。八木が“魔法の言葉”を心の中で唱えたとき、ただのルーキーではなくなる。
-略-
25年前、ダルビッシュも八木もこの世に生を受けていない。そんな若い世代の信じられないエネルギーが日本ハムを支えた。

 日本シリーズ。怖いもの知らずは若さの特権だ。「あまり考えていないんで」。
そう、八木には“魔法の言葉”がある。
(サンケイスポーツ) - 10月13日8時2分更新


日本ハムナイン「大社さん、やりました」
 
 天国で「日本ハムの父」がほほ笑んだ。
05年4月27日、日本ハムの創業者で球団オーナーだった大社義規氏は、90歳でこの世を去った。
一代で日本ハム本社を業界トップに育て上げ、73年に銀行の反対を押し切り前身の日拓ホームフライヤーズを買収した。
野球を愛し「球界一、球場に足を運ぶオーナー」と呼ばれるほど心血を注いだ。
25年ぶりの歓喜の瞬間、選手に抱えられた遺影の中でほほ笑んでいた。

 歓喜に沸く札幌ドームで、大社前オーナーの遺影が、小笠原から選手会長の金子に手渡された。選手と一緒にファンの前に並んだ。今年5月15日には交流戦中にもかかわらず、ヒルマン監督が香川県の墓前で手を合わせた。誰からも慕われたオーナーの夢がかなった。

 球団を愛し、優勝を信じ続けていた。毎年、沖縄キャンプ初日には「1番じゃないと。優勝してほしい」。お約束のようなその言葉に笑いが起こったこともあったが、本人は真剣だった。オープン戦の敗戦にも「練習試合でも勝たなあかんやろ」。周囲の「調整目的なのに」というせりふには耳も貸さない。
「常に戦いを挑む集団たれ」とファイターズと名付けた。自身が「戦う人」だった。

 趣味はなかった。初めて夢中になったのが野球だった。会議では1時間に数度、メモが回った。試合のスコアが書かれていた。試合中には「選手に失礼だ」と好きな酒を一滴も飲まなかった。選手の名前と出身地まですべて覚えていた。選手の名簿を見つめ「ここの出身ならこんな性格かな」と想像を膨らませるのが好きだった。
 96年に、最愛の妻ヒサヱさんを失った。自身も肝臓がんと診断された。すぐに手術した。それでも情熱は冷めない。術後の8月、医師に知らせずチームの約6400キロの長期ロードに帯同。山形のホテル自室でつまずき、左目下を4針縫う大ケガまで負った。このころ、息子の啓二氏の大阪のマンションに同居し始めた。3LDKに家族5人。自室はなく居間に陣取った。衛星放送を設置し、日本ハムの試合を観戦した。
 02年8月、関連企業による牛肉偽装問題が発覚した。当時、父義規氏をオーナー職にとどまらせてほしいと発言したことで、バッシングを受けた啓二現オーナーは「身びいき過ぎるかもしれない。思いを込めた球団を取り上げられなかった」と振り返った。
 北海道移転。野球を観戦する機会が減ることになる。
反対されるのを覚悟し話を切り出した啓二氏は、返事に耳を疑った。「ええやないか。それで、いつ勝てるんや」。04年4月2日の北海道での開幕戦。病院から車いすで札幌ドームに直行した。バックネット裏で詰め掛けた観衆を見て言った。「よく入っているなあ。夢のようやなあ」。
 2年後、その札幌ドームが歓喜に沸いた。選手たちが掲げた遺影が、少しだけ笑ったような気がした。

(日刊スポーツ) - 10月13日10時4分更

正直、この記事には泣いた。
淡々と綴られてるからなのか、妙にグッときた。


ヒルマン監督 スモール徹底が結実

 「シンジラレナ~イ!」。お立ち台のヒルマン監督が、最大限の歓喜を表す時の日本語を絶叫した。昨年のロッテ・バレンタイン監督のような“マジック”はない。就任当初から究極目標に掲げ、4年越しで築き上げた“日米野球の融合”こそが栄光の要因だった。
-略-
日本ハムが優勝争いした98年の強力打線は「ビッグバン打線」と命名された。その名残か打高投低のチームカラーで以後は低迷続いた。就任後も5、2、5位。主たる理由の1つは1点差ゲームの弱さだった。

 昨季33戦で10勝23敗もマイケル中村、武田久と“新方程式候補”が台頭したことで、指揮官の描く理想は自然と「スモール・ベースボール」にシフトした。昨秋キャンプはバントを反復練習。試行錯誤の中で交流戦期間中、森本、田中賢の1、2番コンビが定着。小技が効く2人が塁上をにぎわせ小笠原、セギノール、稲葉の中軸につないだ。チーム犠打数は昨年の54からリーグトップの133へと激増。森本がリーグ最多得点(88)、田中賢がリーグ最多犠打(34)、小笠原が打点王(100)。役割分担が明確になった現れだった。

 ファンフェスティバルでは自らバック宙を披露したが、右ひざじん帯を断裂。全治10カ月の重傷にも笑顔を絶やさず、最後まで参加した。「多くのファンが喜んでくれたのだから後悔はしていない」。今季4万1000人以上動員したレギュラーシーズン8試合は無敗。努力はファンという大きな“戦力”を培った。

 グラウンドを離れれば、至って庶民派。愛用のスケートボードは札幌市内の量販店で購入。就任以来“2代目”となるノートパソコンは、昨年夏に秋葉原で購入したものだ。大好物は宅配ピザだが、日本に来てからは、嫌いだったカレーライスも好物になった。「日米の融合」は、監督自身の内なる革命から始まったのかもしれない。

(スポーツニッポン) - 10月13日6時4分更新



さて…タイトルが「その1」になっているわけですが…

その2に続きます。
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コメント

私は優勝を決めたシーン、球場で見ていたわけですが、ガッツがセカンドでセーフになった瞬間までしか覚えていません。そのあとはホント記憶なくて…
気がついたらワーッっていう歓声になっていて…

家に帰ってから録画しておいたビデオでゆっくり見ました。
翌朝の新聞はスポーツ紙4紙購入しました。記念に保存しておかないとね。

ただ家に戻って、うちの地域版の新聞もみたら、うちの応援仲間が某所で万歳している姿が写っていて、思わず爆笑してしまいました。
 

いやホント、やっちゃいましたね~。
今年は何かが起きるような気がしていたんですよ。
根拠は無いのに優勝するはず!みたいな…。
奇跡を起こしてくれたのは楽天とロッテでしたね・・・。あのライオンズに勝ってくれて、来季は楽天でも応援しようかなと(笑)
ともあれ生観戦お疲れ様です。よかったですね!!
 
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